「黒南風」の語源

文/浜山典之

 初めてこの表記に出合ったならば、何と読むのか分からないという難読語の一つが「黒南風」です。この「黒南風」は夏の季語なので、日ごろ俳句に親しんでいる人にとってはお馴染みかもしれません。また、特に西日本で漁業のような海の仕事に携わっている人にとって、これはよく知られている言葉なのでしょう。しかし、一般的には「どう読んだらよいのか」と首をかしげる人が多いのではないかと思います。全部音読みにして「こくなんぷう」と言うのか、それとも「くろみなみかぜ」とすべて訓読みにするのか。実際にはそのどちらでもなく、「くろはえ」が正しい読み方です。

 さて、「黒」を「くろ」と読むところまでは何の変哲もないことですが、「南風」をなぜ「はえ」と読むのかと、この意外性に疑問を感じたとしても不思議ではありません。

 まず、この語の由来に迫る前に、『広辞苑』(岩波書店)で「黒南風」の項目を引いてみると、次のような語釈が載っています。

  くろ-はえ【黒南風】
  梅雨季の初めに吹く南風。《季・夏》。

 次に、語頭の「黒」を除いた「南風」の部分だけを見てみると、『広辞苑』の語釈は次のとおりです。

  はえ【南風】
  (主に中国・四国・九州地方で) みなみかぜ。おだやかな順
  風。《季・夏》。〈日葡〉

 この語釈の末尾にある〈日葡〉は、この語が『日葡辞書』に記載されていることを示しています。『日葡辞書』というのは、16世紀後半から17世紀の初めにかけてキリスト教伝道のために日本で活動していたイエズス会の宣教師たちが編纂して、長崎学林で1603〜04年(慶長8〜9年)に刊行した「日本語-葡萄牙(ポルトガル)語」の辞書です。ポルトガル語での辞書名は『Vocabvlario da Lingoa de Iapam』といいます。

 余談ですが、この辞書の素晴らしいところは、当時の日本語の口語を中心として3,2293語が掲載されていて、それらにはポルトガル式のローマ字で日本語の見出しがつけられていることです。それによって、この時代の日本語の実際の発音をそのローマ字の表記によって知ることができます。また、ポルトガル語で語釈がつけられているばかりでなく、古典や日常語の用例も記されている点は、辞書編纂時の日本語の実態を記録した資料として非常に大きな価値があります。おかげで、この時すでに「はえ」と発音される語が「みなみかぜ」という意味で用いられていたことが分かります。

 それでは、この「はえ」と発音する語はいったいどこから来たのかという問題ですが、これはどうやら古代インドの言葉であるサンスクリット語(梵語)から取り入れられたものらしいのです。その事情については、植木雅俊『仏教、本当の教え』(中公新書)という本の中に、次のような説明が書かれています。

  江戸時代中期の政治家で博識の学者であった新井白石(一六
  五七〜一七二五)は、語源研究書『東雅』(一七一九年)に
  「梵語の此間(このかん)の語となりし例。其一二(そのい
  ちに)をこゝに挙(あげ)つべし。たとへば〔中略〕水をア
  カといひ。南風をハエといひ」と記している。その「ハエ」
  となった梵語(サンスクリット語)はヴァーユ(vayu)であろ
  う。それは風のことで、南から吹く風とは限っていない。イ
  ンドを出発し南風に乗って船で日本まで来た人が、「ヴァー
  ユに乗って船で来た」とでも言ったのであろう。その人は、
  単純に「風に乗って」と言ったつもりだったけれども、聞い
  た人が「南方から来たのだからヴァーユは南から吹く風だろ
  う」と理解したのであろう。(同書、pp.153-154)

 引用が少し長くなりましたが、「ハエ」という語の来歴について上記のような推理が正しいかどうかを断定することは難しいと思います。ただ、そういう光景を想像すること自体は不自然ではないでしょう。その一方で、「ヴァーユ」と「ハエ」との発音の落差がやや大きいことが多少気になるところです。

 歌謡曲の歌詞では、「異邦人」という語にフランス語風の「エトランゼ」という読みをルビによって与えることがあります。「南風」を「はえ」と読むのは、そのような類いの日本語文字に対する外国語読みのやり方の元祖──とは言わないまでも、古い時代の例と考えらなくもないでしょう。
(2018/9/14)  



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