平安中期から鎌倉初期にかけて、今様(いまよう)と呼ばれる歌謡が流行しました。当時の言葉で「当世風」を意味する今様には、短歌形式のものもありましたが、特に代表的なのは七五調(一二音)を四句連ねたものです。この今様をこよなく愛した後白河法皇(後白河上皇、後白河院)は、ときに声がかれるまで今様を歌ったといいます。そればかりか、白拍子(しらびょうし)・傀儡女(くぐつめ)・遊女(あそびめ)などにより歌われていた数多くの今様を自ら書き留めて、平安時代末期(治承年間、1180年前後)に『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)という歌謡集に集成しました。
ちなみに、『梁塵秘抄』に収載されているものの中でとりわけよく知られているのは、高校の古文の教科書などにも見られる次の今様ではないでしょうか。
遊びをせんとや生まれけむ
戯(たはぶ)れせんとや生まれけん
遊ぶ子供の声きけば
我が身さえこそ動(ゆる)がるれ
【現代語訳】
遊びをしようとしてこの世に生まれてきたのだろうか。
戯れごとをしようとしてこの世に生まれてきたのだろうか。
遊んでいる子供の声を聴いていると、
私の身体さえも動いてしまう。
この『梁塵秘抄』の編著者である後白河法皇は、武士が台頭した時代に、源頼朝から「日本国第一之大天狗」と評されたほどの巧みな政略によって朝廷の権威を保持しようとしました。そのように政治的な才腕を大いにふるいつつ、5人の天皇の代にわたって院政を行った一方で、戦乱や疫病や貧困などに苦しむ庶民に心を寄せ、人々の暮らしの安寧を願ったとも言われています。
ちなみに、後白河法皇の勅願によって1164年(長寛2年)に京都に創建された蓮華王院(れんげおういん)の本堂(通称:「三十三間堂」)には現在、千の慈悲の眼と千の慈悲の手をそなえてあまねく衆生を救うという一千一体の千手観音像が安置されています。
(2019/7/21)
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