長井雅楽の悲運

文/浜山典之

 長井雅楽(ながいうた:1819-1863)という人は、あまり広く知られていませんが、幕末の長州藩に生まれ、藩主の毛利家と同じ血筋の家柄で、家禄は百五十石でした。

 1860年代はじめの日本は、外国との通商条約の実行か、あるいは鎖国攘夷かという緊要の問題を巡り日本国内の世論は沸騰し、混迷の真っ只中にありました。そうした収拾の目処が立たない状況の中で、長井雅楽は藩主毛利敬親(たかちか)に時局打開策の立案を命じられました。そうして書き上げた意見書が「航海遠略策」でした。

 この意見書で長井が説いたのは、日本がすすんで開国し、世界を制する大商船隊をつくり、貿易によって得た富で武力をたくわえ、国家を守ることでした。

 それを一読して感嘆した藩主はこれを藩是とし、さらにこれによって京の朝廷と江戸の幕閣を説得するよう長井に命じました。その結果、「航海遠略策」は京や江戸の要人たちからも大いに好評を得ました。

 ところが、それは長州藩内で松下村塾系の者達から猛反発を食らい、長井は近江で久坂玄瑞らによって暗殺されかけたこともありしました。なぜ松下村塾系の藩士達が「航海遠略策」にそれほどまでに猛烈な異議を唱えたのか。その背景には、彼らが長井雅楽に対して深い怨みを抱いていたことがあるのは否めないでしょう。というのは、長井雅楽こそが自らとは思想を異にする彼らの恩師、吉田松陰を野山獄に投獄し、さらには吉田松陰を幕府に売って死に追いやった張本人であると、彼らは思っていたからです。

 やがて長州藩の主導権が松下村塾系の一派に握られたとき、長井は世を騒がせた責めを負わされて、藩命により自刃を余儀なくされました。「航海遠略策」を打ち出してから短い間の栄光と挫折でした。

 しかし、長井の死後数年して、坂本竜馬がこれと似た案を掲げて海援隊を組織しているところを見れば、「航海遠略策」が燦然たる卓論であったことがうかがわれます。
(2022/2/11)  



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